「格率  現実的行為原理をめぐる問題」

一、

[1-1]  「規範(Norm)」は現代の道徳哲学における中心的テーマの一つになっており、多くの論者がそれぞれの意味合いで規範を捉え、究明を行なっている。ところで、現在おそらく最も権威のある哲学辞典の「規範」の項(1)によれば、規範という概念が道徳哲学(特にドイツ語圏の)において独立の専門用語たる地位を獲得したのは、ようやく十九世紀になってからである。しかもこの言葉は、カント道徳哲学との批判的対決とともに哲学の議論に導入された。規範は、その最初の時点では、カントの「単に形式的にすぎない」道徳原理との批判的対決が行われる中で、道徳哲学の中心的テーマとなったのである。この事情からすると、「道徳規範の総合的究明」という総題のもとで筆者がカントの格率(Maxime)について考察を試みること自体、若干の説明を要するかもしれない。

[1-2]  今述べたように、規範は、道徳的なるものについての、カントの単に形式的な(純粋実践理性的な)規定を克服しようとして究明され始めた。そこでは、単なる形式性を克服し、現実性、実質性、共同性(Gemeinschaft)をそなえ、しかも何らかの普遍妥当性や必然性を失わない道徳原理が求められた。そういうものを獲得するために、たとえば心理学的あるいは歴史的な分析により、行為の標準的ないし平均的な尺度が取り出されたりしたと考えられる。基本的に、規範とは、われわれが現にいつも当然のものとして従っている現実的行為尺度であり、そうでありつつ、明確化や妥当性の承認やその根拠提示をわれわれに要求してくる行為尺度である。小論では、そのような現実的行為尺度あるいは行為原理を探求し明確化することの可能性とそこにつきまとう問題を考えてみたい。そのために、カントの格率概念を取り上げようと思う。

[1-3]  というのも、後に述べるように、カント道徳哲学における格率は「単に形式的にすぎない」ものではなく、現実性実質性を失わない行為原理だからである。そして格率は、「単に形式的にすぎない」と言われるものの必須の前提をなしている。また、道徳性は格率においてこそ成立するのであり、道徳的判定は格率をもとにして行われるのである。ところが、かかる行為原理をわれわれが明確に捉えることは意外に困難なように思われる。このことがカント格率概念そのものの問題であろうし、同時にそれは、規範探究の際の困難を照らしだすことにもなると思われるのである。ただし、「道徳法則の定式化の基礎としての格率概念は、カントをめぐる議論において最近ようやく以前より強く注目が集まっている」と七十年代に述べられた(2)こともあるように、格率そのものをどう考えるかについて現在何らかの定説があるとは言えない。また、カント自身が格率そのものを表立って詳細に論じているとも言えない。それゆえ以下で筆者が格率について述べることは、何人かの研究者の見解をも参考にした上での試論である。

二、

[2-1]  まず最初に、カント道徳哲学の基本的枠組みの中で格率が占める位置についての確認から始めたい。言うまでもなく、カント道徳哲学の根幹は定言命法である。『道徳形而上学の基礎づけ』で「ただ唯一にしてこれ(ein einziger und zwar dieser)として挙げられるその定式化によれば、定言命法とは、「格率が普遍的法則となることを、その格率を通して汝が同時に意欲しうるような、そのような格率にしたがってのみ行為せよ」である(以上引用はGMS.IV-421)(3)

[2-2]  日本語では順序が逆になってしまうが、定言命法はまず人間的行為主体に対する命令(Imperativ)である。そしてその命令は、「これこれの意図ないし目的を意欲するならば」といった条件を先行させることなく、端的に無条件に「行為せよ(Handle…)」と要求する。それゆえ定言的(kategorisch)と形容される。しかしながらこれだけではまだ、定言命法の命令するところについて、有意味なことはほとんど何も語られていないに等しい。行為主体に対して定言命法が命令する有意味な事柄は、まず第一に、「格率にしたがって行為せよ」ということであり、第二に、「その格率が普遍的法則となることをそれを通して汝が同時に意欲しうる」ということである(4)

[2-3]  定言命法はまず第一に「格率にしたがって行為せよ」と命令する。このことから次のように言えるだろう。まず、格率は定言命法が生み出しうるもの、定言命法から出てくるようなものではない。たとえば定言命法が上位の命題としてあって、そこから格率が下位の命題として論理的に導出されるといった具合に考えることはできない。格率は定言命法が行為主体に命令を発する以前に既に存在する。『実践理性批判』第一節でカントは実践的原則の分類を行なっているが、そこで格率は実践的法則つまりは定言命法と並列されていて上下関係にはない(KpV.V-19)。さらに、もし格率が全く存在しない場合を考えるとすれば、当然ながらそのとき定言命法はその命令を発し得ない。この意味で、格率は定言命法が働くための不可欠の基盤である。格率は、定言命法と具体的現実的な行為とが関係するための不可欠の媒介項をなすのである。

[2-4]  ここで歴史的反省を少ししておくと、格率という概念はアリストテレス論理学のボエティウスによるラテン語訳を起源とする。格率はもともとはpropositio maximaを、つまりそれ自身は証明を必要とせずに知られ、その他の命題を証明する側である最上位の命題のことだった。それが後に法学や倫理学の分野に転用され、フランスのモラリストたちにおいて大きな役割を果たした後、カントがその倫理学講義用の教科書としていたバウムガルテンでは、格率は実践的三段論法の大前提という意味で用いられていた(5)

[2-5]  それではカント自身による格率の規定を見てみよう。カントの定義によれば、格率とは「主体がそれにしたがって行為する原則」たる「行為の主観的原理」(GMS.IV-420f.Anm.)であり、「意欲の主観的原理」(GMS.IV-400 Anm.)である」(6)。さらに、意志の普遍的規定を含むものたる実践的原則の中で、「その〔意志に対する〕制約づけが主体の意志にとってのみ妥当すると主体によって見なされる主観的な実践的原則」が格率である(KpV.V-19)。

[2-6]  これら定義でカントは格率を「原理」「原則」と呼ぶ(7)が、先の歴史的確認を見ればそれは承認できるであろう。そして、いやしくも「原理」と呼ばれるからは、格率は決して具体的現実的行為の純然たる記述ではありえず、むしろそれら行為の上にあって、それら行為がのっとる尺度でなければならないだろう。カントは『実践理性批判』で財産を増大させる格率を挙げたあと、もとの所有者が亡くなっていてしかも証書も残っていない預託物が手中にあるという状況を述べ、「これは言うまでもなく私の格率があてはまる事例である(der Fall meiner Maxime)」と語る(KpV.V-27)。この言い方が示すように、具体的現実的なレベルの上にあって、そのレベルに適用されるのが格率である。したがって格率には、どの程度かはまだ述べ得ないにせよ、尺度としての何がしかの普遍性ないし抽象性が認められるのであり、格率はある程度の規範的性格をすでに持つのである。

[2-7]  ところで、定義が記される箇所において、格率は「客観的原理」である「実践的法則」と対比され、「主観的」行為原理と特徴づけられている。それはなぜか。客観的原理は行為主体に対して「それにしたがって行為すべきである(handeln soll)」という仕方であらわれてくるが、他方格率は、行為主体が「それにしたがって実際に行為している(wirklich handelt)」(GMS.IV-420f.Anm.,Vorlesung.S.52)というあり方をする。つまり第一に格率は、いつもすでに行為主体がそれにしたがっているものであり、行為主体が自分のものとして持っている現実的行為原理なのである。第二に格率は、行為主体が「自己自身に課した規則」(GMS.IV-438)であり、「主体自身が自己に対して規則とする」(MdS.VI-255)行為原理である。格率を設定するのは行為主体自身であり、格率の出所は現実の行為主体自身である。第三に格率は決して没理性的なものではなく、「理性の協動(Mitwirkung)によって」(GMS.IV-427)形成される。ただし格率は行為主体の傾向性や性癖などの主観的制約をもその基盤の一部としており、理性はそれら主観的制約にあわせて格率を規定するのみである(GMS.IV-421参照)。それゆえ格率には客観的法則のような当為の性格は認められない。しかしだからといって、格率の原理ないし尺度という性格が損なわれることはない。格率は意欲の原理である。

[2-8]  このようにカントの格率は「行為主体自らが自分に課した自分の原理」である。すると、定言命法がまず最初に命令する事柄として先に述べた「格率にしたがって行為せよ」とは、「行為主体自らが自分に課した自分の原理にしたがって行為せよ」という意味だったことになる。定言命法はそのような原理にしたがって行為せよと命令する。そのような原理のない行為は定言命法による道徳的判定の埒外にある。道徳性が問われうる行為とは、行為主体自身がその出所になっている原理にしたがった行為であり、道徳的に是とされるか否とされるかは、格率がいかなるものかにかかっている(GMS.IV-399, KpV.V-37, Rel.VI-21を参照)。それゆえカントにおいても、催眠状態とか心神喪失状態にある人間の行為は道徳性を問えないだろう。そこには何らかの自然法則的な性格はあるかもしれないが、行為主体自身がその法則的なものの出所ではないと考えられるからである。カントのこういう考え方には、「あえて賢明であれ(sapere aude)」という啓蒙のモットーを聞き取ることができる。現実的主観的な行為原理である格率も、自由の原理なのである(8)。この自由の思想は筆者には重要な点だと思われる。というのも、同じく現実的行為尺度である規範を考えるときに、行為主体自身がその規範形成を行なうということ、あるいは少なくともそれに何らかの仕方で参与するということ、このことはゆずれない一点だと筆者には思われるからである。行為主体自身の「外から」あるいは「上から」、行為主体と無関係に規範がやって来て行為主体を拘束する、このようなことは認められるべきではないだろう。

三、

[3-1]  それではさらに進んで、カント自身が記している格率の実例をいくつか取り上げ、格率の定式化を試みてみよう。

[3-2]  道徳的判定に合格しない格率として次の二つ。
「彼の格率はこうである。もしかなりの期間生きれば人生は快適さを約束するよりもむしろ禍をもって脅かす場合、私は自己愛に基づいて、私の人生を縮めることを私の原理とする」(GMS.IV-422)。
「……すると彼の格率はこうなるだろう。私は自分が金に困っていると思う場合には金を借り、決してそんなことは起こらないと知っていながらも、返済すると約束しよう」(GMS.IV-422)。

[3-3]  道徳的判定に合格するものとして、テキストそのままではないが、次の格率。
「不愉快なことや希望のない苦悩が生に対する愛着を完全に取り去ってしまった場合、その不幸な人が、心を強く持ち、自分の運命について臆病になったり落胆したりするよりむしろ憤慨し、傾向性や恐怖にではなく義務に基づいて、生を愛することなく生を保つ」(GMS.IV-398より)。

[3-4]  これらカント自身による実例から、格率は状況記述、行為記述、行為主体の三つの要素(これをそれぞれS、H、Xとする)から成り立つと言えるだろう。ただし、先に確認した格率の原理としての普遍性からして、SとHはそれぞれ決して実際の具体的な状況および行為の記述ではなく、Sというタイプの状況、Hというタイプの行為ということである。一方Xは、「私」「あなた」「彼(彼女)」といった単数の人称代名詞ないし理想的には固有名詞である。格率の担い手と道徳的判定者が同一の場合、つまり自分で自分に判定を下す場合、Xは「私」になる。しかしカントの実例もそうであるように、道徳的判定は判定者とは別の人物に対しても行なわれる。その場合、その人物自身はXを「私」というかたちで意識している(たとえば竹山はその格率を「私はタイプSの場合……」と考えている)だろうが、道徳的判定の作業を明確なものとするためには、Xは「私」以外のものとするのが適切である(つまり「竹山はタイプSの場合……」)。それが「あなた」「彼(彼女)」である。このように、格率は、「XはタイプSの場合、タイプHを行なう(行なわない)」と定式化できる。Xが格率にしたがって行為するとは、ある特定の具体的な現実の状況がタイプSに属すると考えられる場合には、XはタイプHに属すると考えられる具体的行為を意欲しそれを現実に行なう(行なわない)ということである。

[3-5]  ただし、ニールも言うように(9)、格率は行為主体自身のものであるから、行為主体自身にとって自明な事柄は省略したり簡略化したりすることができる。それゆえS、X、Hを常に全部そのままのかたちで含んでいる必要はない。たとえば、Xが「私」である場合、必ずしもそれを明確化する必要はないだろうから、Xは省略可能である。このとき格率は「タイプSの場合はタイプHを行なう(行なわない)」となる。タイプHは動詞の不定形であらわされるだろう。

[3-6]  Sも、「タイプSの場合は」と常にあらわされなくてもよい。実際カントのテキストにはSの部分をこのかたちで伴わない格率の語られることがかなりある(10)。たとえば「いかなる侮辱も復讐せずにはおかない」という格率(KpV.V-19)は、一見したところSを含んでいないように見える。しかしこれは、「誰かがXに侮辱を与えた場合には」という文言が省略されていると考えるべきである。というのも、誰かがXを侮辱したと判定されないときに、「……復習せずにはおかない」という格率にしたがって実際に行為するなどということは有意味でないからである。それに、そもそもこの格率は「何ものも復讐せずにはおかない」と語ってはいない。また、「私の財産をすべての安全な手段によって増大させる」という格率(KpV.V-27)も、Sを含んでいないように見える。しかしこの格率は、決して「いついかなる場合でも」とは言っていない。「安全な」という限定がつけられている(11)。試みにSを復元してみるなら、「財産増大のための安全な手段を自分の意のままにすることができる場合には」となるだろう。この種の事例はSを省略ないし簡略化したものであって、それを復元することができるのである。

[3-7]  さらに、カントが「自愛の格率」「怜悧の格率」(KpV.V-36,GMS.IV-402f.など)といった言い方をしていて、SはおろかHもXも見当たらない場合もある。これは、その格率の最終的な根拠が自愛(怜悧)だということである。本節のはじめに挙げた格率の三つの実例の中で、一番目の嘘の約束の格率は引用文にある通り「自愛に基づいて」いるから、それを自愛の格率と呼んでもよい。つまりこのような言い方は、個々の格率ときには複数の格率をその最終的な根拠によって特徴づけ、とりまとめた表現である。(『単なる理性の限界内での宗教』にはこういう表現がよく見られる)。行為主体の持つ格率そのものは先の定式にあてはまるのであって、「自愛」とか「怜悧」そのものが格率だとするべきではない。

[3-8]  ところで、Sの要素についてシュヴェンマーも論じている(12)。彼によると、「嘘」「自殺」の例ではSの要素は何の役割もしていないという。それはカントがいくつかの特定の格率はいついかなる場合でもしたがう(したがわない)べきものと見なしており、そういう格率にSという条件を付けるべきではないと考えたからだろうという。しかし、もしそうだとすると、これは結論を先取りした断定と言わねばならないだろう。シュヴェンマー自身も最終的にはSの部分をともなったかたちで、彼なりに格率を定式化しているのである(13)

[3-9]  以上、格率は「XはタイプSの場合、タイプHを行なう(行なわない)」と定式化される、「行為主体みずからが自分に課した自分の原理」である。それでは次に、これら確認事項を踏まえながら、いくつか問題を検討したい。

四、

[4-1]  前々節で取り出した、格率の「行為主体みずからによる原理」という性格、自由の性格は、最近のカント解釈においてしばしば強調される点である。それら解釈において格率は、「私はいかなる人間であろうと欲するのか」をあらわす「人生の規則(Lebensregel)」とされたり(14)、「人生哲学(philosophy of life)」を最終的にあらわすものとされたり(15)している。それら解釈は格率を、人間が全体としての自分の人生に対して持つ、みずからがあらかじめ設定した根本的な態度あるいは方向づけをあらわすものと見なし、格率に人生全体を貫き支配するようなかなり高い程度の普遍性を認めようとするのである。なるほど格率は原理なのだから、この解釈にはうなづけるところがある。しかし、格率にそこまでの普遍性が認めうるだろうか。

[4-2]  格率は原理であり「状況のタイプ」「行為のタイプ」という要素を含むから、確かに個別性具体性そのもののレベルにはない。格率に普遍性を全く認めないわけにはいかない。しかし、格率が人生全体を貫く根本原理と言えるまでの普遍性を持つとするのは適切ではない。そのような根本原理はおそらく理想的には一つ、あるいはいくつであれ決まった数ということになるだろうが、格率は決して一つではない。一定の数だけあるのではないし一定の数に限定できるものでもない。ある行為主体がある状況タイプに面してある時点で採用する格率と、その同じ行為主体が同じ状況タイプに別の時点で面するとき採用する格率とが異なっていることも十分ありうる。格率は個別性具体性に近いところで、多くの事実的性格をそなえたものとして、不定数存在する。行為主体が遭遇する具体的状況と行為主体が行なう具体的行為は、事柄の性質上全く不定であり無際限である。それら状況と行為をタイプ化する点で格率は原理という性格を持ちうる。しかしタイプ化するということは、格率が数的に限定可能であるということを意味しない。タイプ化のときの区別原理はさまざまでありうるし、カントはそのような区別原理を与えていない。カントのテキストには義務に基づいた格率と自愛に基づいた格率との二分法が顕著に見られるが、これは格率そのものにおけるタイプ化とは別の事柄である。

[4-3]  ちなみにヘッフェはその優れた論文で「格率は全体としての自分の人生を生きてゆく仕方と方法を含み、生の一定の根本的アスペクトと最も普遍的な状況タイプに関係する」と述べている。これは格率にかなり高い普遍性を認める立場だと思われる。しかし彼は後にこの論文を単行本に収めたときに、「格率は、生の現実の特定の領域にさらに特殊化される限りでの、人生の最終的な根本的方向づけである」と記していた文(すでにこれも後退した主張と思われる)に加筆して、「あるいは格率はその上にーー内容的にさらに特殊化されてーーそのような根本的方向づけのより細かいアスペクトに関係する」と述べている(16)。これは彼の最初の主張からの後退であり(17)、格率にあまり高い普遍性を認めるのは不適切だという筆者の考えに近づいた改変だと思われる。

[4-4]  カント自身は格率がどの程度の普遍性を持つかについて何も語っていないに等しく、大きな幅を残したままにしている。解釈の幅も広いと言わざるをえない。筆者としては、あまり高い普遍性を認めるのは不適切と考えるのである。

[4-5]  次に、行為主体Xに着目して、格率の明確化について考えてみたい。行為主体Xは「私」「あなた」「彼(彼女)」のいずれかである。行為主体自身が「われわれ人類は」「わが民族は」といったかたちで意識している場合もあるだろうが、これは不正確な表現あるいは不当な拡張であって、Xは基本的には単数でなければならない。複数の行為主体間で格率が一致することは確かに考えられる。しかしその一致を、当然とか必然と見なしたりすることはただちにはできない。さて、そのようなXの行為がそれにしたがって行なわれているのが格率なのだが、果たして格率は、容易に明確化しうるのだろうか。定言命法による道徳的判定をするためには格率が知られなければならないが、Xの格率はどのようにして知られるのだろうか。

[4-6]  Xが「あなた」「彼(彼女)」という他者の場合から検討しよう。カントは第二節冒頭の引用文にも見られるように、躊躇なく「彼の格率はこうである……」と語り、道徳的判定を下している。しかし、他者の格率はそもそもどのようにして知られるのか。言うまでもなくわれわれは神の目を持っていないから、他者の内側に入って他者の意識をのぞき見ることはできない。われわれが他者の行為について道徳的判定を行なうとき、われわれに与えられているものといえば、他者が現実の特定の状況で実際に行なう行為だけである。したがって、その行為に基づいて解釈し抽象して格率を決定し、判定を下す、これがわれわれの取りうる方途ではないだろうか。

[4-7]  この点についてのカントの考えが窺われるテキストにはこう述べられている。「ある人間が悪いと呼ばれるのは、その人間が悪い(法則に反する)行為を行なうからではなく、それら行為が彼の内なる悪い格率を推論(schliessen)させるような性質を持つからである。さて、経験によって、法則に反する行為に気づくことは確かにできる。…[中略]…しかし、その格率を観察することはできないし、自己自身の内なる格率すら常に観察できるとは限らない。それゆえ、その行為者は悪い人間だという判断を、確実に経験に基づかせることはできない。したがって、ある人間を悪いと呼ぶためには、若干の、否ただ一つの意識的な悪い行為から…[中略]…根底にある悪い格率をア・プリオリに推論しなければならないだろう」(Rel.VI-20)。

[4-8]  やはり、他者の内なる格率そのものを観察する(beobachten)することは判定者にはできない。判定者は「経験によって」、他者の実際の行為が持つ「性質」に気づく(bemerken)。そしてその性質に基づいて格率を決定し、判定を下すのである。

[4-9]  ところでカントによれば、性質から格率への道筋は「ア・プリオリな推論」でなければならないだろうという。しかし、ここでそのようなものが成立しうるだろうか。カントは厳密性を強く求めすぎているように筆者には思える。そもそも、最初に現実の行為に何らかの性質を認める段階で、判定者の解釈が入りこんでくるだろう。ここで言われる性質とは単なる感覚与件ではなく、それをすでに越えたものとしなければならないからである。確かに、解釈して得られた性質から格率へと進む道筋はでたらめであってはならない。だが、それを厳密な論理的推論、すべての判定者が必然的に同じ結論に落ち着くような道筋だとすることはできないだろう。この道を経て得られた格率が「確実に」その行為の格率だということはさしあたり保証されない。しかしこのことは得られた格率がその行為の格率だという可能性は必ずしも排除しないし、われわれにこれ以外の道があると考えられるだろうか。

[4-10]  場合によっては、他者がわれわれに対して自分の格率はこれこれだと主張することも考えられる。だが、他者の主張する格率が本当にその格率かどうかはそれ自体問題である。たとえ他者が自分の本当の格率を知っていても、彼(彼女)がその格率をわれわれに理解できるように正しく言明する保証はない。われわれがそうさせる権限を持つわけでもない。すると、判定者であるわれわれが解釈し抽象して得た格率と、行為主体である他者が言明する格率とが一致しない場合がありうるだろう。また、判定者が複数いるとき、その判定者たちそれぞれが解釈し抽象して得た格率の間に一致の見られない場合もありうるだろう。他者が行なう行為の格率がいかなるものであるか、それは容易に決定できることではないのである。それをつきとめる作業は、あたかも刑事裁判で、被告の行為についてさまざまの状況や証拠を枚挙検討し、要件をひとつづつ確定して、どの罪にあたるのか決定していくようなものであろう。格率と実際の行為とは一対多で対応すると考えられるが、他者についての場合、われわれにあらかじめ一があたえられるとは考えられない。われわれは多から出発せねばならず、一である格率に容易に到達できるわけではないのである。

[4-11]  ここで一つ問題が生じる。先の確認では、格率は「行為主体みずからが自分に課した自分の原理」であった。この「みずからが自分に課した」「みずからが立てた」という性格と、「道徳的判定者が解釈し抽象する」という今述べた事柄、両立することはそもそも不可能だとは言えないが、ただちに両立するとも言えない。行為主体自身には思いもよらぬものが自分の格率として宣告されるということも、場合によってはありうる。つまりここでは、格率の「みずからが立てた」という性格が危うくなってきているのである。

[4-12]  筆者は第二節で、格率にも自由の思想が見られることを指摘し、それを大事な一点だと考えた。この一点と、Xが他者の場合について今述べた事柄とは簡単には両立しないと言わざるをえない。しかし後者の事柄は、他者の行為について道徳的判定を下す場合、避けようがないものと筆者には思われる。そしてここで、人間は自己におもねたがる存在者だというカントの洞察(GMS.IV-407参照)をも思い出すべきである。すなわち、人間は自分の行為と格率が立派で高貴な根拠に基づいて行なわれ設定されたものと偽るのが常であるような、自己欺瞞的存在者なのである(18)。どんなに厳しく自己吟味しても、自分の行いの本当の根拠をつきとめることができない存在者なのである。Xである他者がいかなるものをその格率として主張しようとも、それを鵜呑みにすることはできないのである。

[4-13]  したがって、格率を顕在化しようとする場合、われわれはカントから若干距離を取る方がよいと思われる。つまり格率の「みずからが立てた」という性格、格率を立てるのはその行為主体のみだという性格にあまり拘束されない方がよいと思われる。もちろんこれは、その性格を完全に無視してよいということではない。それを失うべきではないだろう。また、解釈し抽象して得たものはそもそも「みずからが立てた」原理と一致し得ないということでもない。ただ、この性格に拘束されればされるほど、他者の行為についての道徳的判定は困難さを増すように思われる。

[4-14]  このことはXが「私」の場合にもあてはまる。「私」が「私」の行為原理を知らないなどということはあり得ぬように思われるが、必ずしもそうではない。先の引用文にあるように、われわれは「自己自身の内なる格率すら常に観察できるとは限らない」。そして、誰よりも「私」をこそ、自己におもねる自己欺瞞的存在者だとしなければならない。自分の行為の格率が本当はいかなるものなのか。これを明確にすることは自分のことであるだけに一層難しい。「私」は、「今回だけは別だ」という誘惑の声に引かれて例外を設け、自分が格率だと思っているものを裏切ることさえ稀ではない。格率は「それにしたがって実際に行為している原理」であるから、そのとき「私」は自分の本当の格率を知らなかったということになる。Xが「私」の場合もやはり、「みずからが立てた」という性格にあまり重点を置くことはできないのである。「私」のこれまでのさまざまな経験、「私」が行なった具体的行為およびその状況、ある特定の時点において「私」が面している具体的状況、こういったものを解釈し抽象して得られるという性格を、ここでも格率に認めるべきだろう。そしてその解釈と抽象を行なって判定する者は、第一には確かに「私」自身だが、他者であってはならないとする理由はないだろう。

[4-15]  以上のように、カントの格率概念はそれ自身の内に一種の緊張をはらんでいるように思われる。格率は「みずからが立てた」